オーストラリアの歴史
この項目では留学やワーキングホリデーでオーストラリアへ行く人のための基礎知識としてのオーストラリアの歴史をご案内します。オーストラリア国家の成り立ちを知る事でより深くオーストラリアを理解し、滞在を充実させることができます。
オーストラリアの人間の歴史は、現在の推測では約6万年前の最後の氷河期にパプアニューギニアから当時の原住民が陸続きだったオーストラリア大陸へ移動して発見したか、あるいは島伝いに渡ってきたと考えられています。
これらの人々は人類の歴史において最も古く継続している文化を作り上げ、オーストラリアを形作ったわけです。
ヨーロッパの移民たちが入ってくる前に住んでいたオーストラリアの先住民であるアボリジニと呼ばれる人々は、当時およそ30万人から100万人いたとされています。これらの人々はグループに分かれ、500の違った文化を持ち、250の違う言葉を話していました。
アボリジニ(aborigine)はもともと英語の先住民族という意味の言葉ですが、オーストラリアではアボリジニあるいはアボリジナルという言葉はオーストラリアに先住していた民族の総称としての意味を持っています。
さて、アボリジニの人々は集落を形成し、狩りをしていました。彼らは季節毎に移動し、彼らが食べるに必要なだけの狩りをして、食物を蓄えていました。肥沃な土地では、彼らは小さな地域で生活し、乾燥した土地では水や食料を取るために広い地域を移動しなければなりませんでした。
伝統的なアボリジニ社会は親族集団の複合体です。各ファミリー集団はそれぞれの役割と責任を持っていました。政府も権威組織もありませんでしたが、ドリーミングと呼ばれる優れた信仰によって社会が保たれていました。この信仰は彼らの音楽や絵画、ダンスなどに表現されていました。そして、ドリームタイムと呼ばれる創世や歴史の物語を語り継ぐことで、子孫へ受け継がれ、伝えられてきました。 西暦1600年代に、オランダの探検家たちがオーストラリアの北部と西部沿岸地域を訪れ、またタスマニアを発見しました。1688年には最初のイギリス人探検家ウイリアム・ダンピアが北西部海岸地域に上陸しました。
ヨーロッパ人の入植
1770年にジェームス・クックはオーストラリア東岸を発見し、地図に記しました。そしてクックはオーストラリア東部全体をイギリスの土地とし、「ニュー・サウス・ウェールズ」と名付けました。
ヨーロッパ人の入植は、1788年にイギリスがオーストラリア東部を植民地としたことが始まりです。イギリスはオーストラリアを植民地化する2つの理由がありました。
ひとつはイギリスで増えすぎた囚人を植民地へ移して減らす目的、もうひとつはオーストラリアを南東アジアと中国との貿易拠点とすることでした。
11隻の船に満員の囚人と海軍兵や役人を連れたキャプテンのアーサー・フィリップは、1788年1月18日にボタニー湾(今のシドニー空港がある周辺)に上陸しました。この8日後、732名の囚人を含む1373名の上陸した人々はポートジャクソン北部へと数キロ移動します。彼らが入植したこの場所が後にシドニー(今のロックス地区周辺を中心としたポートジャクソン湾)として発展していくのです。
ポートジャクソンという開拓地に辿り着いたこの記念すべき日が、毎年祝われている1月26日のオーストラリアデイという祝日です。
植民地化と国家への形成過程
さて、この最初の入植から、オーストラリアの植民地化は大陸全体に急速は拡大しました。入植後の100年間に現在あるようなホバート、ブリスベン、パース、メルボルンが次々とつくられていきました。これは強靭で、独立心が強く、忍耐力がある国民性によって達成されたものでした。
その後80年に渡り、イギリス政府は16万人以上の囚人をオーストラリアへ送り込みました。やがて1800年代半ば頃からは、金の発見や羊毛産業の発展によってさらに多くの開拓者がイギリスやアイルランドから渡ってきました。また、1852年から1889年の間に、金を探して約4万人の中国人移民がオーストラリアに入りました。
次第にイギリスがオーストラリアを直接統治することは難しくなりました。余りにもイギリスから遠かったからです。入植者たちもまた、自分たちの独立自治を望んでいました。そのため、1850にイギリス政府は入植者に独自の法律をつくる権利を委譲したのです。
19世紀末までにオーストラリアには6つの自治政府ができました。ニューサウスウェールズ、タスマニア、クイーンズランド、サウスオーストラリア、ウェスタンオーストラリアです。これらの植民地はそれぞれ完全に独立した議会、政治家、法律や規則がありました。
オーストラリア国家の誕生
その後次第にそれぞれの植民地は互いに共通の利益を守り、広げるために一緒になる必要性を感じてきました。そしてついに、1901年1月1日に国家政府を持つオーストラリア連邦が生まれました。この連邦の形成はオーストラリアの民衆に誇りと愛国心という重要な気持ちを目覚めさせたのです。
その後オーストラリアは国家として第一次世界大戦参戦という最初の試練に直面しました。1915年4月25日、オーストラリアとニュージーランドの連合軍(アンザック=ANZACsと呼ばれます)はイギリス軍とともにトルコのガリポリ半島に上陸しました。この8ヵ月に及ぶ上陸作戦でオーストラリアは26,111名の犠牲者を出して敗退しました。しかしながら、アンザック連合軍の優秀な戦士の闘いぶりは、オーストラリアの人々にオーストラリア人としての誇りと団結を作り上げたのです。
4月25日のアンザックデイという国民の祝日は、この国軍の貢献と犠牲を記念したものです。
第二次世界大戦ではおよそ100万人のオーストラリア人が参戦しました。この戦争でオーストラリアは史上初めて本土を攻撃され、ダーウィンでは日本軍の爆撃、シドニー湾では潜水艦の攻撃を受けました。この戦争によってオーストラリアは侵略の脆弱性を感じたのです。そのこともあって、その後およそ200ヵ国から移民を受け入れるようになりました。
第二次世界大戦後、膨大な難民がオーストラリアへ移住しました。戦後にやって来た新しい移民者はおよそ700万人。これらの新移民者はオーストラリア社会のあらゆる面で様々な影響を与えてきました。
今日、約2千2百万人のオーストラリア人の4人にひとりは国外生まれです。ニュージーランドとイギリスからの移民者が最も多い割合でした。しか近年はアジア各国からの移民が著しく増えています。
国家 – オーストラリア連邦と州
オーストラリアはアメリカやイギリスに似た議会制民主主義を行っています。この基本となるものは、言論と団体結社の自由、宗教的寛容です。
オーストラリア政府の活動は、例えば、外交、貿易、防衛、入国管理において責任を持つといった部分です。また連邦政府と州政府は教育を管理する法運営について協力しています。
オーストラリア連邦政府は選挙によって上院、下院の2つの議院から成る国会を基本とします。政府は下院の多数議席を持つ政党が担当しますが、しばしば上院の均衡勢力の少数政党が政府決定に審査する機能を果たします。オーストラリア政府の大臣は多数政党の上下院によって選出されますが、政府方針は内閣によって決められます。
オーストラリア国民は選挙に必ず参加しなければなりません。そのため連邦選挙の投票率は約90%となります。選挙は通常2年半から3年毎に行われています。
オーストラリア政府のリーダーはプライムミニスター(首相)と呼ばれています。
オーストラリアは独立国ですが、イギリスのクイーンエリザベス2世を女王とする立憲君主制をとっています。女王はオーストラリア政府が選定した女王の代理となる総督を認定する形を取ります。総督は幅広い権限を持っていますが、実際には首相のご意見番という役割です。オーストラリアにおいては女王は総督に置き換えられるのです。
オーストラリアの各州は選挙で選ばれた政府とリーダーがいます。
州政府のリーダーはプリメイヤー(州知事)とよばれ、また特別地域ではチーフミニスターと呼ばれています。州議会は国家憲法および州憲法に従っています。実際には連邦政府と州政府は教育、交通、健康、治安等多くの面で協力し合っています。
地方自治体は都市および農村地帯を管轄しています。例えば地方の交通機関、ゴミ収集、都市計画等の問題を担っています。また、市等の地方自治体(役所)は図書館運営、保育サービス、地域イベントも積極的に行っていますし、教育や観光についても誘致活動をしています。地方自治体の首長はメイヤー(市長)と呼んでいます。